【第23回】イザベラ・バードが見た140年前の胎内地方

学長コラム 2018.6.1

1回「基礎ゼミ」の学長講話で
「胎内の歴史は古い、平安時代には、
すでにいまの中条を中心とする摂関家の荘園が形成されており
また、鎌倉時代には武士活躍の一環として『胎内・鳥坂城(とっさかじょう)』の戦いで
鎌倉幕府方を迎え撃った弓の名手・『板額御前』の奮闘ぶりを述べて
<地域の地理・歴史を知ろう>」と伝えました。
今回は、いまから140年前、明治の初期に日本の奥地を旅した英国人女性「イザベラ・バード」の旅行記から
日本と胎内地方のスケッチ・印象記を紹介することにします。

地域社会のよさは気づきにくいもの 
イザベラ・バ-ドが日本へ来たのは、1878年の5月、彼女が47歳のときのこと。
その後、3ヶ月ほどをかけて、日光、会津、新潟、東北の西、北海道の南を旅しています。
そして、その日本に対する印象は、日ごろ私たちが気づかないようなことばかりでした。

 美しく、清潔で誇り高い日本
・・・
浮浪者はいない、みんな仕事を持っている、貧相だが優しそうな顔つきをしている、
着ているものは上等ではないが、みな礼儀正しく、勤勉である、
どこも安全で婦人がなんの危険もなく旅行できる、
女は技術や教養を身につけている、これほど自分の子どもを可愛がる人々はいない・・・といった具合です。

新潟から山形・米沢への旅 
会津(福島県)から山を越え新潟に入ったバ-ドは、阿賀野川・中流の川湊から船に乗って新潟へと向かいます。(新潟の観察では)信濃川とその支流が莫大な水量と砂や岩くずをも運び、
河口は砂州でふさがれ、細い水路も絶えず浅くなって、手に負えない、と記しています。
その後、新発田、加地川(聖籠)~中条~黒川を経て、
米沢へと旅を続けるのですが、このあたりの風景の描写は、つぎのようになっています。

胎内地方は<全体として楽しげな地> 
・・・貧乏そうにも見えなかったし、非常に不潔な感じもしなかった。
土はとても軽くて、砂地であった。
丘陵と丘陵との間の低地は菜園のように肥料を充分に施して耕作してあって、
えんどうのように這わせたきゅうり、水瓜、南瓜、里芋、甘藷、とうもろこし、茶、玉葱など
すばらしい作物をつくっていた。
りんごや梨の広々とした果樹園は、8フィ-トの高さの棚に横に這わせてあり
珍しい風景となっていた。東方には山頂まで森林におおわれた山脈(飯豊山脈と思われる)が走っており・・・

どうでしょうか、新潟平野も胎内も、いまの景色とほとんど変わらず、胎内地域の豊かさがよくわかります。
なお、ベタ褒めなのは、「置賜県・米沢地方」で、バ-ドは、この地方を
<穀物や果物が豊富で、地上の楽園のごとく、人々は自由な生活を楽しみ、東洋の平和郷というべきだ>
とまでいいます。
私たちは、外国人がこれ程日本のすばらしさに気付いているのですから、
もう一度、故郷を見直すべきかもしれません。

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