【第15回】塩の道‐千國街道と三州街道

学長コラム 2018.3.9

地場調達から商品流通へ 
近世になると、瀬戸内などの塩田の発達で、塩は日本海や太平洋回りの船で遠隔地へ輸送されるようになります。
湊に着いた塩は、その後は陸路で奥深い山国に向かいます。そのための専用交通路も整備されてきました。

 

南下する「北塩・下塩」 
越後の糸魚川から信濃の松本に至る<塩の道>は「千國街道」で、
姫川沿いの険しい道では牛・人の背、やがて馬の背に代わります。
長い旅には牛が向いています。1頭で「通し」が効く、エサ<飼葉>がいらない牛は、
文字通りの<道草>で足りるからです。
小谷村には、牛と人が同居して泊まる「牛方宿」の地名も残っています。
登山では、「休憩する」ことを「一本立てる」といいますが、塩運びのボッカ(歩荷)が、
狭い山道で「背の重荷(50kg)に荷突棒を噛ませて立ったまま休む」というのが語源です。

 

もう一つの塩の道  
信州に塩を届けるル-トには「千國街道」のほかに、
太平洋側の岡崎→足助→飯田→塩尻「三州街道」があります。
塩の旅の終点だから<塩「尻」>でしょうか。途中の足助では
三河「吉良」と「赤穂」の塩とがブレンドされ小俵に再包装されました(塩直し)。
輸送の利便化、味の調整・安定化、商品価値の向上は、昔からビジネスの基本だったのです。
吉良と赤穂、忠臣蔵の敵同士の塩がブレンドされる、面白いですね。
さて、上杉謙信の塩はどんなル-トで武田信玄に届いたか、推測してみてください。

 

塩を運ぶのは「にがり」を運ぶこと 
純度の低い塩を運ぶことは、保存料「塩」と食品加工用の「にがり」を同時に運ぶことにもなります。
塩漬けにされた北陸の魚が信濃大町など山の町に届けられると、塩から魚を分離して販売し(塩イカ)、
濃塩水に含まれる「にがり」を使ってその地域の大豆を豆腐に製造することができます。
「塩イカの料理」が、遠く離れた北の大町と南の飯田、いずれでも名物なのは、
塩の道と関係が深いからでしょう。

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