【第95回】空襲について その2 「東京大空襲」

学長コラム 2021.2.26

太平洋戦争末期の1945年に東京を攻撃した空襲は、3月から5月まで3波ありました。
非戦闘員(一般市民)を標的にした国際条約にも反する爆撃、ドイツでも同じように「ドレスデン空襲」が知られています。
7月号(学長コラム【第79回】)で長岡の花火大会と空襲を取り上げましたのでこの話題は2回目になります。
記憶から忘れ去ってはならないと思いふたたび取り上げました。

●下町大空襲

昭和20年(1945年)3月10日24:00~11日2:30までの2時間30分、B29爆撃機300機(14機は墜落)が来襲し、隅田川と荒川に挟まれた東京・下町の市街地を目標として、M69焼夷弾1600本=32万発を投下、24万人を死傷させて(死者は10万人以上)、26万戸を焼き払いました。(第2次世界大戦の「ドイツ・ドレスデン大空襲」の死者数は35,000人

これは当初から民間を標的とした攻撃でした。(指揮官はカーチス・ルメイで、1962年のキュ-バ危機の際、ケネデイ大統領に対して「ソ連への核先制攻撃」を進言したが却下されたことがある人物)

●城北大空襲など

2波は1945年4月13日深夜から14日未明の空襲で、豊島区、荒川区、足立区が対象になりました。(焼き残し地への空襲と称する)このときにはわが実家も被災し、長いこと軒先に焦げ跡が残っていました。
風向きが変わっていなければ、焼け落ちていたに違いなく、自分もこの世にいなかったかも知れません。

いまから想像するに、人々はさぞつらかっただろうと思います。豊島区だけの数字でも、犠牲者は778人(3区では2,500人)、焼失した家屋は34,000戸、被災者は16万人といわれます。
四谷駅前(旧四谷区)の双葉学園は、城北大空襲で校舎が焼失していますので現在の赤レンガの正門は母校の歴史とかつての姿を残したものではないでしょうか。
そして、1945年の5月25日には、最後に焼け残った東京・山の手地区が空襲に遭います。(第3波)

ドイツのドレスデン聖堂は、空襲で被災し焼失したレンガや石を丹念に集めて復元している。記憶を忘れない、過去を水に流さない、こういうことへの努力が日本人には足らないと思います。

仏教(因果経)では、「欲知過去因=当観現在果・欲知未来果=当観現在因」(現在の結果は過去に原因があり、将来の結果は現在に原因がある)と教えます。現在とは、過去から将来に至る歴史の一瞬間なのです。

●八王子の都営霊園(墓園)

わが家の墓所は八王子市高尾にありますが、そのごく近くに家内の叔母の墓もあります。叔母の墓石の斜め後に「E家」と刻まれた墓石があり、そこには1939~1992年まで10人の方々が眠っています。
そのうち4人は1945年3月10日(下町大空襲)の死亡、墓石に、まつ57歳、芳雄22歳、トミ17歳、和子14歳と刻まれていて、なんとも無残なことです。

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