【第60回】新潟の潟・湖

学長コラム 2019.7.5

「潟」とは、海の一部が海岸の砂によって封鎖された地形で
日本海側には潟のつく地名が数多く残っています。
北の方では、秋田県の「八郎潟」、琵琶湖に次ぐ日本第2位の面積を持つ湖でしたが
干拓され、現在は「大潟村」となって、先進的な農業が行われています。
また、芭蕉の「奥の細道」に登場する「象潟」は、そのころは広大な湖でしたが、
1804年(文化6年)の出羽国大地震で海底が隆起、
現在は、田んぼの中に松の小島が浮かぶ美しい風景になっています。

芭蕉は、当時の美しい景色を“象潟や雨に西施がねぶの花”と詠んでいます。
下って石川県にも「河北潟」という干拓地があります。

 

さて、新潟ですが「潟=地名」の多い県で、かつ、かなりの潟が干拓されて農地=水田になりました。
岩船潟(村上:石川の河口)、紫雲寺潟・塩津潟(胎内・新発田:落堀川河口)、
鎧潟(巻・西川:信濃川河口)、福島潟(豊栄)、大潟(上越・大潟町)などです。

一級河川である鳥屋野潟は、かなり埋まりましたが湖はまだ健在で、
また、亀田郷周辺には、潟東村月潟村などの地名も残っています。

越後平野を流れる川は、江戸時代には信濃川と荒川(米坂線に沿い東西に流れる)を除いては、
海岸砂丘に行く手を阻まれて日本海へ出られなかった。
つまり、それ以外の川は潟を経由して、信濃川に流れ込んでいたそうで
そうなると、常に洪水の危険に曝されていたのです。
阿賀野川さえも潟湖を通じて信濃川に合流して日本海へと、とても水抜けの悪い条件下にありました。
逆の意味では、潟湖は天然の運河でもありました。(昔の地図参照)

会津地方を経て新潟に旅したイザベラバードも、「津川から阿賀野川を下り」と書いていますが、
いつの間にか加治川に入り、終着は新潟になっています。

 

また洪水を防ぐ、水田が欲しい、排水をよくしたいという要望が、
連続した堤防、海へのショートカット排水路の整備に繋がったこともあります。
潟の干拓=農地の創出、大河津分水(drain=排水路)の完成
数多くの用排水ポンプ場の365日の運転で越後平野の農業は成り立っています。
このような水路は、「疏水百選」として、都市住民の憩いの場にもなっています。

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