学長コラム
第22回 馬乳酒
私は2013年と15年にモンゴルに行きました。
当時の研究室の准教授が中心となって獲得した文部科学省科学研究費基盤研究(B)(海外学術調査)「モンゴルにおける持続可能な水環境保全と水利用のための遊牧システムの形成」(2012–2015年度)による調査旅行でした。
河川や井戸水などの環境水が家畜のふん尿に汚染されて、家畜や人の健康に被害を与えているのではないかといったことを調べました。
モンゴルといえば、広大な草原にぽつりぽつりと家畜が草を食むといった風景を思い浮かべていましたが、実際は様々な家畜がかなり密集して放牧されていました。首都ウランバートルを横断して流れるトール川の上流でサンプリングを行いましたが、数十頭の牛が川を渡ると、その後にヤクの群れが水を飲みながら川を渡る。その下流の川岸には馬の群れ。川にほど近い草原や丘の中腹には山羊と羊の大群、といった状況でした。
研究の結果、河川や井戸がこれらの家畜由来の微生物によって汚染されていることが分かりました。遊牧民と家畜がのんびりと暮らす美しいイメージと現実のギャップに驚かされました。
さて、ここでは、モンゴルの馬乳酒について書くことにします。
馬の乳を搾る
首都ウランバートルから幅広い舗装道路を車で走るとすぐに大草原のまっただ中です。運転担当は通訳担当の若者のお母さん。お母さんは事もなげに対向車線に入って先行するトラックや乗用車を追い越します。道路工事中の区間では草原に降りて、多数の轍の中から適当に選んで舗装道路と同じ勢いで飛ばして行きます。スリル満点ながら怖さを感じさせない安定した運転に感心しているうちに、研究のためのサンプリング場所に到着しました。
山羊、羊、馬を飼っている遊牧民の家族を訪問しました。
小学生くらいの息子が裸馬に跨がり、馬を集めます。息子は子馬を優しく押さえ、母親が母馬の乳を搾ります。牛の搾乳の場合、牛が動かないよう保定して行いますが、ここでは全く何もせず、手早く金属の容器を持って乳頭に手を伸ばして搾っていました。家族とともに暮らす馬ならではできる搾乳方法です。
馬は季節繁殖動物で、北半球では2月から6月に出産します。妊娠期間は約11ヶ月です。排卵は21日周期ですので、出産後の初回発情で受胎すると、翌年の同時期に出産することになります。草が豊富で栄養が行き届いている時期に子を産んで育てるといった草食動物にとって合理的な出産サイクルです。我々がモンゴルを訪れたのは8月でしたので、母馬は子育てのために多くの乳を出していた頃です。
なお、羊や山羊では、妊娠期間は約5ヶ月ですので、秋に発情・受胎し、翌春に出産します。やはり、餌の草が豊富な春に子育てを行えるようになっています。
ゲルの中で馬乳酒を作る
搾乳した馬の乳は、ゲルの中に置かれたプラスチック製の瓶に移します。瓶には馬乳酒が残っており、これを種菌として、新しい乳を発酵させます。
同行していた研究室の学生が混ぜることになりました。ゆっくりと混ぜ続けるようにとの指示で、子どもたちに笑顔を振りまきながら腕を動かします。よく混ぜることが馬乳酒作りの基本です。
馬乳酒の発酵過程では、乳酸菌が酸を作り、酵母がアルコールを作ります。
これまでに培養法や遺伝子解析法によって馬乳酒の微生物構成が調べられています。その結果、1つの馬乳酒でも、多種多様の乳酸菌や酵母が含まれており、さらに、家によって、これらの微生物の種類の構成が異なることが分かっています。酸はおもに乳酸ですが、酢酸やコハク酸なども作られ、これらの成分の割合も家々で異なっています。これが味や香の違いに繋がっています。
馬乳酒の発酵過程で増える乳酸菌は特殊で、酸素存在下で増殖します。よく撹拌するのはこの乳酸菌を増やすためです。
日本でヨーグルト製造に使用されている乳酸菌は、ブルガリア菌やサーモフィラス菌です。これらは通性嫌気性といって、酸素があっても生存しますが、酸素がない条件を好み、無酸素下で乳酸発酵を活発に行います。また、ビフィズス菌も使用されますが、こちらは偏性嫌気性で酸素がある条件下では増殖せず、酸素のない条件下で増殖して乳酸や酢酸などを作ります。
馬乳酒を飲む
少年がカップに馬乳酒を注いでくれました。
その先の皿に置かれているものはウルムです。乳から作ったクリーム状のもので、そのまままたはパンに乗せて食べます。
馬乳酒はやわらかな酸味が感じられる独特の飲み物です。酒といってもアルコール濃度は1-3%で、アルコールはほとんど感じません。モンゴルでは子どもも飲んでいます。我々の運転担当のお母さんは馬乳酒が大好きとのことで、何杯も飲んでいました。アルコール度数が少ないとはいえ、多く飲めば酔いますので、飲み過ぎないよう息子にたしなめられていました。
遊牧民たちは古くから来訪者に馬乳酒や乳製品を振る舞う風習があります。訪問者であれば誰であれもてなします。これは、外部から来た人から情報を得るためといわれています。われわれは、この風習のお陰で、簡単に遊牧民の家族と近づくことができました。
後日談です。別の機会に3年生の学生をモンゴルに派遣しました。帰国後、彼女はC社を受験し、最終面接でモンゴルで飲んだ馬乳酒が忘れられず御社を受験したと答えたそうです。この一言で入社が決まったとのことでした。
誰もが知っているC社の飲料を作る微生物は乳酸菌と酵母ですが、こちらの酵母はアルコール発酵ではなく、香り成分産生が役割です。甘く、酸っぱく、ほのかな香りの“初恋の味”は、微生物たちの合作です。
(中井ゆたか)