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【第31回】ヒトは陸(おか)の道、モノは水の道

日本海の海上交通 
鉄道網が整備されるまでとくに大量貨物の輸送は、川や海を経由するのが主流でした。
1112世紀には、日本海に海上交通の大動脈が形成され始め、十三湊、敦賀、若狭、小浜などには
大陸からの入津も盛んでした。
琵琶湖経由や瀬戸内海経由の航路で、京都、大坂には大量の物資が円滑に搬入されて
瀬戸内海の「兵庫湊」(神戸)に出入りする船数は、バルト海
北海に栄えたヨーロッパ・ハンザ海運同盟のどの湊よりも多かったといわれています。
日本海+瀬戸内海の北前船航路は、河村瑞賢によって17世紀に完成しました。
「下り荷」(北国方面)は、米、酒、綿、煙草、塩、紙、砂糖、蝋燭、鉄、
「上り荷」(畿内方面)は、ニシン粕(棉作の肥料)、数の子、身欠きニシン、
干ナマコ、昆布、干ダラなどでした。

太平洋岸航路の出遅れ 
操船・航行の方法には、沿岸の陸と山を見ながら走る「地乗り」と
離れて走る「沖乗り」の2つがありますが
わが国では、江戸時代における船の大きさ制限、性能の限界などから、「地乗り」を主としてきました。
太平洋沿岸ではこの航行法だと、海路の途中にいくつかの決定的難所(灘)があり
さらに、荒天時に停泊する「避難港」が少ないという弱点がありました。
日本海と太平洋ではその危険度から、幕末に至っても運賃格差(リスク・プレミアム)があり
江戸への輸送では、太平洋航路は距離が短いにもかかわわらず、運賃は高かったようで
高リスクでは、運送業者が貨物を買い取って運び、販売する方式も採り難いのです。
平岩 弓枝さんの『御宿かわせみ』(初春弁才船)には航路中、遠州灘、熊野灘が難所で
東北から江戸への運賃は、西回り(713)121両、東回り(417里)で222分とも紹介されています。
日本海の海運が本流であり、「<裏>日本」などと呼んではいけません。

北前船の買取い制・運送 
日本海を往復する北前船の場合には、各地域、湊で
特産物の買取り、販売を繰り返して利益を生み出すチャンスも多いのです。
このように、北前船での特徴は「輸送+買取+販売制」
貨物の運送賃だけを受け取る「請負制」と違いがありました。
リスクとリターン、どう判断して経営するのか、現代のビジネスにも共通します。


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