学長コラム
【第32回】北前船と高田屋嘉平衛たち
ここでは、江戸時代の末期、日本近海の海運に大活躍をした3人のお話をします。
北前船の航路
造船技術、操船技術の発達に従って、かつてのような「地乗り」(沿岸航行)から
はるか沖合、場合によると佐渡の西側を追い風で速度を上げつつ走るルートも利用されるようになります。
北陸の<福浦・輪島→伏木・小木→今町→新潟→酒田>の路線に対して
<福浦(→ 小木) →酒田>の超スキップ・ルートの千石船が登場します。
「千石」とは、重量でなく容量(カサ)で、コメで換算すると
1石=150kg=0.15t1000石船は100~150t積みですが
幕末には、2000石を超える大型船も出てきました。
高田屋嘉平衛(1769~1827年)
淡路島の出身、兵庫湊を拠点としました。
大坂~江戸の樽廻船(日本酒)の水主(かこ)で財をなして、その後「北前船」を経営します。
輸送の請負で運賃を取る回船業の手法を改め、自らリスクとリターンを引き受ける「買取制」に転じて
さらに、函館(箱館)から国後・択捉の航路を拓き、漁場経営でも成功しました。
根拠地とした函館市宝来町(函館山の麓)には、いまも大きな像が建っています。
大黒屋光太夫(1758~1821)
伊勢国白子(三重県鈴鹿市)を拠点とした回船の船頭で、江戸回り航路で漂流し
アリューシャンのカムチトカ島に漂着しました。
「ロシア帝国」の「サンクトペテルブルグ」に連行されて皇帝にも拝謁、9年半後に帰国を果たしました。
鎖国時代でも、日本人の足跡は、世界各地に広がっていたのです。
銭屋五兵衛(1774~1852)
北前船を駆使した加賀藩の御用商人・海運業者です。
「海の百万石」といわれ全所有船数は200艘以上のうち、千石船=20艘以上、
大陸との密貿易の疑いをかけられて80歳にして刑死しました。
五兵衛は、その財力で河北潟の干拓(稲作経営)も手がけましたが
完成を見ることはありませんでした。
江戸時代の新田開発、干拓、水路建設は、開発者に莫大な利益をもたらすので
豪商が乗り出すことも多かったのです。
越後平野を豊穣の地に変えた「信濃川の大河津分水」(日本海への水路誘導)も江戸時代に着手されました。
新潟の各地には、水土を拓く土地改良事業の遺産があります。