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【第14回】合掌造り集落は火薬原料の製造工場だった

田に雪が残る相倉(あいのくら)集落

【写真説明】相倉では紙漉きが盛んだったようですが、ここでも塩硝が作られていました。



30年ほど前のことですが、歴史研究家が私の研究室に訪ねてきました。
この方は関ヶ原の戦いを詳しく研究をしていらっしゃるようで、あれだけの数の鉄砲が用意されたことも驚異だが、玉を発射するための火薬が国内にあったのか、あったとしたらどこで作っていたのか、床下の土を集めて硝石を回収したと書かれたものがあるが、それだけで十分な量を用意できるのかといったことに疑問を感じているとのことでした。突然の来訪でしたので、予め文献調査することもできず、便所から発生するアンモニアガスが、床下の土の表面でアンモニア酸化細菌によって硝酸に酸化され、これが染みこんだ土から硝石を分離したのだろうと答えました。その後ずっと気になっていましたが、さらに調べることもなく時が経ってしまいました。
今回たまたま、五箇山の案内の中に「塩硝の館」を見つけ、訪ねることにしました。




塩硝の館

五箇山には、40の小さな集落がありますが、その中で相倉(あいのくら)と菅沼(すがぬま)の2集落が世界遺産に登録されています。
まず訪れた菅沼では、村内を歩いてから、五箇山民族館を見学しました。その斜め向かいの合掌造りが、塩硝の館でした。
内部には様々な展示があり、塩硝づくりについてパネルで詳しく説明されていました。帰宅後にいくつかの論文を読みましたので、塩硝についてまとめます。
塩硝とは、硝酸カリウム(KNO3)のことで、硝石、煙硝、焔硝ともよばれます。塩硝と粉末硫黄、炭素粉末を混合することによって黒色火薬が作られます。火薬は鉄砲と共に伝来し、1543年に種子島に漂着したポルトガル人による説や16世紀半ば頃に倭寇がもたらしたという説がありますが、いずれにせよ日本に伝来したのは1500年代中期のようです。伝来から数十年後の長篠の合戦(1575年)や関ヶ原の合戦(1600年)において、国内で作られた銃や大砲が用いられたのは驚くべきことです。




塩硝の生産方法

日本における塩硝の生産方法は「古土法」、「培養法」、「硝石丘法」の3種類がありました。硝石丘法は幕末期にオランダから入った方法ですので、古くは前の2つの方法が用いられていました。
古土法は、古い家の床下の土から回収するもので、収量は少なく、再度の採取までに20年待つ必要がありました。職人が床下にもぐって土を集め、簡易な小屋を作って硝石の抽出作業を行い、作業が終わると次の村に移動するといった形態で行われ、効率は悪かったようです。




床下の塩硝土の断面模型

【写真説明】この模型では、穴の側壁に密着した形で塩硝土がぎっしり詰められていますが、板垣英治氏の論文(引用論文)の図では、側壁には接しない詰め方で示されています。好気性のアンモニア酸化細菌を増やすためには、干し草の層に空気が流入しやすい板垣英治氏の論文のような詰め方が、好適と考えられます。



培養法は、五箇山でのみ行われていた方法で、元禄年間(1700年前後)に飛騨白川に伝えられています。合掌造りの家の居間にある囲炉裏の周りの床下に穴を掘り、ここに、乾いた土と干し草、蚕の糞をミルフィーユ状に積層して、硝石を生産するものです。
私は長年、堆肥化の微生物を研究してきました。堆肥化では家畜ふん尿と籾殻などを混ぜて通気性を良くすることにより、好気性独立栄養細菌(酸素が好きな細菌です)であるアンモニア酸化細菌および亜硝酸酸化細菌(両者を合わせて硝化細菌とよばれる)を増やし、その働きにより、ふん尿中のアンモニアを酸化して硝酸とします。硝化細菌を好適に働かせることによって、アンモニアの揮散が抑制されて悪臭が発生しにくくなるとともに、肥料成分である窒素分を堆肥中に留めることができます。
五箇山では、これと同じ反応を、床下で行っていたことになります。乾いた土と干し草が通気性を良くして硝化細菌を増殖させ、この細菌によって、蚕の糞のアンモニアを酸化して硝酸とする非常に合理的な方法です。一般に硝化細菌は低温下では働きませんので、囲炉裏で暖かく温度が安定している場所を用いる素晴らしい方法です。
合掌造り住居の床下は、微生物を培養して、精密な化学反応を行わせるプロセスが整えられた火薬原料の製造工場だったわけです。
培養法では人尿も使用したと書かれた説明が散見されますが、これは誤りだと思われます。尿を塩硝土に散布すると、水分量が高まって通気性が落ち、アンモニア酸化は進みにくくなります。その結果として、硝酸生成効率が落ちますし、なによりもアンモニア揮散によって炉端が悪臭で覆われ、食事や家族団らんの場所に相応しくありません。





硝石製造鑑札および株の御鑑札



床下で秘密裏に作られて、秘密の道を通って運ばれたとされることもあります。
培養法は、五箇山や白川郷以外では行われていなかったことから、この製法に関しては秘密にされていた可能性はありますが、この場所で製造されていることや運搬に関しては秘密ではなかったようです。写真の鑑札にあるように、藩から正式な許可を得て生産されて、藩に売却されていました。また、村には厳重管理の関所はなく、運搬には塩ブリの運搬や伊勢参りのために頻繁に使われる道が使われていました。




参考文献
板垣英治、五箇山の塩硝史 - 最高品質・最高生産量・最長期生産 -、風俗史学/日本風俗史学会誌号 42、54-77、(2011)
野澤直美ら、硝石製造法の史学的調査と実験的検証に関する研究 – わが国における3種の硝石製造法の比較 - 、薬史学雑誌、55(2)、179-193、(2020)



(中井ゆたか)


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