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【第101回】家や人の呼び名、屋号など

●門出田代べとプロだより

いまは柏崎市になった旧高柳町の門出・田代集落のから、若者たちが編集した「ふるさとだより」が定期的に送られてきます。集いの場所、地域の魅力・生きる技、小学校の活用を目指すこのプロジェクトでは、鳥追い、虫送り、まつり、田植え、稲刈り、紙すきなど「むらのくらし」が肌に感じられてとても興味深い内容です。

また、掲げられている編集委員の呼び名が楽しい。
まごしろうの小林、たんぼの佐藤、なかやしきの村田、かみむらの矢代などと、それぞれに屋号が付せられて、日ごろから屋号や「氏・名」の「」で呼び合っていることが推察されます。地域社会では、はるか昔から続く伝統的な呼び交わしの交流が残っているのでしょう。

 

●安曇野・穂高町から

農村地帯などでは、本家から分家と一つの集落内に同じ苗字の家が数多く見かけます。そこでそれらを識別するために、由来、屋号、特徴をつけて呼びます。
本家の〇〇、新宅の〇〇、(自家消費用の農地を分けてもらったので)田んぼの〇〇など、また、最近は混住が進んだためか(犬を飼っている)ポチの〇〇、緑屋根の〇〇といった呼ばれ方もします。
因みに、家内の実家(佐渡)には、菊地姓が多かったので、区別するため、昔からの由来で「庄司の菊地」と呼ばれていたそうです。

                   

●歌舞伎役者の屋号

 「いようっ!(オツ)たーやー!(音羽屋)」などと歌舞伎の上演中に観客が大向うから掛け声をかけます。

市川團十郎は「成田屋、成田山新勝寺に祈願したら男の子を授かったのが由来だそうです。
尾上菊五郎は「音羽屋、初代の父親の生誕地に近い京都・清水寺の音羽の滝から。
鬼平犯科帳の中村吉右衛門「播磨屋は、初代が播磨屋作兵衛の養子だった。そして「スーパー歌舞伎」の市川猿之助は、初代の生家が薬屋で、薬草の澤瀉(オモダカ)にちなんで「澤瀉屋というわけです。

 インターネットではもともとは武士以外が苗字を名乗れなかった時代に商人や農家などが家業の特徴を表した家の名称だと説明しています。

 

●明治時代に入って-苗字はどう付けた?

2月13日は「苗字の日」だそうです。明治8年(1875年)のこの日に「平民苗字必称義務令」が定められ、みなが公的に苗字を持つことになりました。戸籍制度重視の近代化です。(1898年の新・民法以降、法制上は「氏」に統一)(坂田聡・苗字と名前の歴史)

 なお、明治維新後もしばらくは、苗字は「許可制」で、たとえば、政府への功労者などに「苗字帯刀を許す」といった江戸の名残りの時期もありました。研究者によると、庶民はみな工夫して苗字を考えたようです。苗字は、屋号と化した字(あざな・通名)とともに、超世代的な永続を強く求める日本の「家に固有の名前」すなわち「家名」で、個人の特定を直接の目的とした「個人名」ではなかったと坂田聡さんは指摘します。


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