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【第100回】松尾芭蕉は胎内を旅した

英国女性のイザベラ・バードが、140年前に胎内地方を旅した話を紹介したことがあります。(学長コラム【第23回】)
俳人の松尾芭蕉も、330年前に「奥の細道」で胎内を旅しています。(1689年)


出羽国から越後路へ

残念ながら、「奥の細道」の本文には胎内は登場しません。
羽越の国境(くにざかい)「鼠ヶ関(ねずがせき)」を越えた松尾芭蕉は、西の市振の関(いちぶりのせき)に至るまでを“この間9日暑湿の労に(精)神をなやまし、病(やまい)おこりて事をしるさず”(暑さと湿度で精神的にばてて、何にも書けなかった)と記しています。
また、越後路での句もわずかに2句「文月や六日も常の夜(よ)には似ず」と「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」のみでした。


「曾良随行日記」

胎内の旅は、同行の曾良(そら)が書き残しています。
岩船郡山北の中村を経て、旧暦6月28日に村上に入り7月1日には西へ出立します。
その間、曾良は幕府命令による調査のためか、「瀬波」(湊)を往復しています。

その後は、村上を出て、浄念寺に参詣した後、大雨の中「乙(きのと)村の乙宝寺に参詣、築地村を経て」、新潟に到着です。
胎内の「乙」や「築地(ついじ)」(「高畑」)とNAFUの近隣を歩いていますが、曾良の記述もこれだけです。

越後の逸話が少ないのは、幕府命令の調査のほかに、神道家の曾良が神社仏閣の参詣を優先したこともあると考えます。
「奥の細道」の道筋、旅程を決めたのは(幕府からの各地巡察指示と資金の管理をする)曾良だったと推察できます。

曾良日記での越後の旅程は以下のとおりです。
<鼠ヶ関→中村→村上(→瀬波→村上)→乙→築地→新潟→弥彦→国上→出雲崎→鉢崎(米山)→今町(直江津)→高田→能生→市振>です。


「佐渡島」と“天の川”

「荒海・佐渡・天河」の句は、出雲崎(湊)で7月4日に詠まれた句といわれますが、現実は、佐渡がはっきり見えるのは新潟からしばらくの海岸線(右前方)の美しい姿で、出雲崎からは振り返ることになると知人はいいます。
また、出雲崎からだと、天の川は佐渡上空には横たわらないとも指摘していました。
荒海の方ですが、私の経験から見て、この季節の日本海は最も穏やかです。(日記での天候も晴れ)
芭蕉が強調したかったのは、「佐渡島」そのもの、「荒海」も「天河」も虚構の引き立て役でしょう。
今町で詠んだのだとすると、佐渡島が舞台の「安寿と厨子王説話」(説経節)を思い浮べ(盲目の母が)「鳥も生あるものなれば、疾う疾う逃げよ、追わずとも」、「厨子王、恋しや、ほーやれ、安寿、恋しや、ほーやれ」、これが背景といってもよいでしょう。


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