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【第151回】サクラの話・あれこれ

この春はサクラの開花がことのほか早く、桜前線北上も猛烈なスピードで、日本列島は満開から花吹雪へ、そして「花筏」(はないかだ)へと、マスメデイアもサクラと花見のニュースが満載。

そこで本号では、蘊蓄も含めて、サクラの話を取り上げました。

 

加治川堤のサクラ 

まずはNAFUのご近所、新発田、聖籠地区の加治川の桜から始めます。これは、3月30日のNHK「ラジオ深夜便」に取り上げられました。加治川堤防沿いには戦前、6000本の桜並木があったそうですが、戦争で、1500~2000本が燃料用に伐採されたため、地元の手で、復活を図り再び賑わいを取り戻そうという運動が行われています。

加治川(農業)用水は、「疏水百選」に指定され、①農業・地域振興②歴史・伝統・文化③環境・景観④コミュニテイ機能などの優れたものとされていますので、素晴らしい取り組みです。

一口に6000本といいますが、「千鳥ヶ淵の桜」に代表される東京千代田区の桜が2000本超といいますから、いままで何故もっとPRできなかったのかと不思議です。

(注)画像として、満開の4月3日に、特急いなほの車窓から撮影した「頭首工」を添付しました。頭首工は、河川、湖沼から用水路に水を引き入れるための構造物で、「水利ゼミ」でも訪れます。新潟県には数多い。

 

サクラの花見の始まり 

中国から伝わった「花見」は、サクラではなく「梅見」でした。桜の花見(の宴)」が始まったのは、平安の時代で、記録に残る最初は812年、嵯峨天皇によって行われたといいます。嵯峨天皇は、清水寺・地主神社の桜がいたくお気に入りで、毎年献上させていたそうです。

一方、梅見の方は、中国からの渡来行事で、年号の「令和」も、奈良の天平時代に大宰府で催された「梅花の宴」での大伴旅人の歌から考案されています。なお、「花見」だけではなくて、紅葉を愛でる「紅葉狩りの宴」もあったのです。謡曲の「紅葉狩」には、“(高貴な家の女性たちが)幕うちまわし屏風を立て、酒宴半ば”というくだりがあります。

                       

ソメイヨシノはすべてクローン

はるか昔、高校1年の生物の時間に、先生が、ソメイヨシノ(染井吉野)は、プラナス・エドエンシスという学名で、江戸・染井の植木屋が、早咲きのエドヒガンと花が葉よりも早く咲く特徴のオオシマザクラを交配させできた品種だが、接ぎ木によってのみ優れた形質を伝えるクローンで寿命は短いと教えられました。他方、ヤマザクラも寿命は短いといわれますが、種子での移植栽培が可能で、サクラの名所・吉野と京都・嵐山は、(シロ)ヤマザクラの種子を通じて関係は深いものです。

 

吉野のサクラ、嵐山のサクラ 

吉野のサクラは、およそ2万本で、上中下 + 奥の4か所のそれぞれが「一目千本」です。それで、「千本 (ちもと) の桜」などとも言われます。

さて、嵐山のサクラの方ですが、約750年前、後嵯峨上皇が(仙洞御所に)造営の一環として、吉野の(シロ)ヤマザクラを移したものです。謡曲・嵐山にも“吉野の花の種とりし・・・
嵐の山に急がん”とあります。

おそらく、嵐山のサクラも当時はもっと多くの木々があったのでしょうが、林学の専門家に言わせるとヤマザクラにも「嫌地」現象があって、寿命と世代交替は避けられないようです。国有林では、いま、年に20本ずつ新植し、昔の姿を取り戻そうとしています。以上、いずれもNTVテレビから。


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