学長コラム
【第69回】「いただきます」 と 「ごちそうさま」
第64回のコラムで、産物を頭上に乗せて運び、販売する「いただきさん」に触れました。
今回は、この「いただきさん」にも関連し、食事への感謝の気持を表わす
「いただきます」と「ごちそうさま」のいわれや意義をお話することにします。
食を・いただく
食事を始めるときの「いただきます」は、
「命を・いただく」という意味だと聞かされることが多いでしょう。
もう一つには、「食べ物」は「賜(た)べ物」(神から賜ったもの)と解釈もできますので、
語源をたどれば、「おし・頂く」にまでつながっていきます。
典座
禅宗のお坊さんの地位は、「典座」(てんぞ)が一番高いとされています。
典座は、寺の食事をつくることが務めです。
つまり、調理は大事な禅の修業の一つなのです。
近隣の家々を「托鉢」(たくはつ)で回り食材を集め、これらを材料にして調理します。
そして、この食事は、材料を無駄なく生かしたものになることは言うまでもありません。
ごちそうさま
食事の終わりは、「ご・ちそう(馳走)様」になります。
丁寧を表わす接頭語「ご」に続く漢字の「馳」「走」は、いずれも「走ること」を意味します。
はるか昔のこと、韋駄天(いだてん)が
<奪われたお釈迦様の「仏舎利」(ぶっしゃり)を超スピードで追いかけて取り戻した>、
<韋駄天は釈尊のため方々を駆け巡り食物を集めた>という説があり、
食べ物の托鉢・収集・調理は韋駄天の役目という「俗信」になっていったように思います。
食の神様
そのようなわけで、禅宗では「韋駄天」が厨房や僧坊を守る護法神とされています。
禅寺の厨房近くには、いまでも韋駄天の像が祀られていることが多いのです。
「食」「食育」の究極の着地点が
“食べ物で体をつくり、食べ方で心をつくる”にあるのをいつも忘れないようにしたいものです。