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【第138回】軍用動物 ― 隠れた戦争の犠牲者

 
皆さんは、軍用動物というと何を想像されますか?
必ず出て来るのは、「馬」でしょう。
源平の戦い、戦国時代、第一次世界大戦、第二次世界大戦などを通じて、馬は、指揮官、将校の乗馬用、兵器の運搬用等に使われ、そして、人間の命令に従順であるよう訓練されてきました。

ほかにはありますか。
そう、アラビアのロレンスなど砂漠の戦いでは、「ラクダ」がありますし、紀元前218年のハンニバル・アルプス越えでは「象」も登場しました。
また、やや毛色の変わったところでは、「通信用の伝書鳩」もありますね。

さて、今回のコラムでは、悲しい運命をたどった動物の話をしましょう。
いずれも、太平洋戦争中、敗色濃厚の日本陸軍での犠牲動物のことです。

 

農林省馬政局

少し寄り道をします。
太平洋戦争の前までは、農林省に「馬政局」という組織がありました。
トップの局長は現役の陸軍少将で、所掌事務は、①馬産振興、②軍馬調達、③技術向上、そして、④防疫です。

ここには「軍馬購買官」が置かれ、東北などの馬産地の市で優れた軍馬を調達しました。

岩手県遠野市の市立博物館では、戦前の遠野馬市における「おせり」の再現風景を経験できます。
金に糸目はつけない調達の光景です。
セリ人がオファー価格を復唱しながら落札を目指します。
<120円・・・130円・・・133円、一呼吸おいて、135円、無いかないか?>そろそろ135円で落札かと思うところへ軍馬購買官の一声、「300円!軍馬ご用!」これで全てがお仕舞いになりました。

 

インパール作戦の兵站

兵站(ロジステイック)は、あらゆる戦争、交渉の基本ですが、旧日本陸軍は、この点において誠に拙劣、しかもその教訓はいまも活かされていないと考えています。
ビルマのチンドウイン川を渡り、高山帯のアラカン山脈を越えてインドのインパールに進出しようという作戦でしたが、携行食料は2週間分、その後は、現地住民やインパールの英国軍から調達するというものでした。
しかも兵器や弾薬などを運搬する駄馬が不足していたため、ウシをもってこれに替え、運搬が終われば屠殺(とさつ)して食用にすると荒唐無稽(こうとうむけい)な兵站でした。
兵隊は牛の扱いになれていない、牛は水を怖がるので渡河でかなりを喪失、アラカン山脈の悪路でも転落、物資を運べないどころか、食用にも役に立たずでした。机上の空論、楽観論が10万人近い兵隊の命を奪いました。
(退却時の道には、「白骨街道」という名前が付けられました)

 

イヌ、ネコ

つぎは、もっと悲しい話です。
8月30日の東京新聞には、こんな記事が掲載されていました。
「一般家庭のペットも、軍事目的で、国から『供出』が求められた。この事実を風化させてはならない」

1944年の北海道庁の公報誌に「犬の供出促進運動」が掲載されている。
戦況の悪化で兵士の動員が増え、満州や樺太に送る防寒用の帽子や軍服に使う毛皮の原料不足が深刻になった。
「もともと羊やウサギの皮を使っていたが、足りずに野犬、ペットの犬や猫も使うようになった」といいます。
ことの本質は、国が実質的に強制する、周りも雰囲気を醸成したことです。

狂犬病対策や野犬の駆除を名目にして犬、猫の供出を厚生省や自治体が呼びかけた。
そして、もっとも問題なのは、「食料や衣服も不足するなか、ペットを飼うのはぜいたくで非国民だという風潮があり、町内会や隣組の中で相互監視するなどの「草の根ファシズム」が広がっていく、これが、子どもたちを初めとし動物と家族同様に暮らしてきた人々の心を傷つけることになるのです。

 

北海道の供出数字など

全国に先駆けて運動を展開した北海道の数字は、1943年からになりますが、終戦までに犬の毛皮や革3万枚、猫の毛皮は約5万5000枚が供出され、神奈川でも44年で犬1万2000匹が犠牲になったと報じられています。
「国家総動員体制」は、こういう悲しい、国をおもんばかる環境づくりでもあることを忘れてはなりません。


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