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【第139回】新潟の油田、ガス田と3人の石油王

ガス田の試掘開始 

9月23日付の新聞各紙は、INPEX(資源開発の大手会社)が、新潟県内でガス田の探鉱を開始し、商業化できる埋蔵量が確認できれば、2026年にも生産を開始すると報道しました。その場所は、INPEXが天然ガスを生産している南長岡ガス田の近接地です。また、JAPEX(石油資源開)も新潟県のガス田での増産を計画しています。

日本は天然ガス調達のほぼ全量を輸入に頼っているので、ウクライナの危機を発端として資源価格が高騰するなか、国内での新規開発を通じて、安定調達につなげようというものだと解説しています。

こうしたニュースを目にして、新潟は、歴史的にも、将来の可能性でもエネルギーに有利な点を持つと考えます。

 

新潟の油ガス田の現状 

新潟県内では、JAPEX(石油資源開発)が、岩船沖油ガス田のほか、紫雲寺、東新潟、吉井(長岡)、片貝(上越)の5か所で操業中、ガス生産と需給調整のための貯蔵をしています。

胎内キャンパスのL棟から日本海方向に見えるのは、たぶん、この岩船沖油ガス田の掘削のためのリグで、同社の情報では、胎内川の河口から約4km沖合にあって、国内では唯一の「海上プラットフォーム型」で操業しているとのことです。(1983年着手、1990年リグ建設・生産開始)

このリグと重なって風力発電のファンも見えます。大学のキャンパスがある胎内地域もまた、小水力やソーラー発電があり、将来は、海上設置型大規模風力発電も計画中と、エネルギーの町になる可能性を持っています。 

いまや、胎内の豊かな自然と農林水産業を活かした循環型で再生可能なエネルギーを含め、大学としても積極的に取り組む時期が来たようです。

 

草生水・くそうず 

新潟の石油史にも触れておきます。柏崎市西山町には、草生水献上場(くそうずおんじょうば)という故地があり、「日本書紀」の天智天皇7年(668年)の段に、「越の燃土、燃水とを献ず」と記されているそうです。毎年8月には「草生水祭り」の採油式も開催されますが、胎内市(下館)にも同じような行事があり、「黒川燃水祭」として採油し、献上すると新潟日報に報じられていました。

「西山油田」では、明治初期から昭和初期まで、年間300万トンの石油が生産されていました。(歴史新書・あなたの知らない新潟県の歴史)

 

石油がなければ戦争はできない 

「石油文明」とも称され、産業の生命ともいわれます。ロシアのウクライナ侵攻に対する制裁措置から、天然ガスが輸入しにくくなっています。天然ガスの生産会社「サハリン2」への日本の出資・継続を巡り多くの議論もあります。樺太・サハリンは石油・ガスの資源が豊富で、太平洋戦争のときにも、戦争継続の検討のうえで北樺太の油田から産出される石油は国内へ運べるのか、軍艦や航空機の燃料として計算に入れてよいのかという議論が盛んでしたが、結局、南方への進出を選択し、最後は太平洋戦争の開戦になってしまったと解説されています。

 

石油王・3人 

ここで、新潟の石油開発。石油産業の振興に貢献した3人の人物を紹介しておきます。石油王といっても、石油の三傑といってもよいでしょう。幕末開港後には、石油ランプが輸入されるようになり、灯油に対する需要が急増します。そこへこの3人が登場するのです。なお、この部分は、先に述べた歴史新書や北越高校の竹石先生の著作を要約しました。

内藤久寛 
刈羽郡西山町(柏崎市) 1888年日本石油会社を設立、鑿井機械を輸入して機械掘りに成功、日本における石油業近代化の先駆けです。

中野貫一 
蒲原郡金津村(新潟市) 明治の初めに金津で手掘りで石油の採掘をスタート、次第に事業を拡大、明治の末には、中央石油株式会社、中野合資会社を設立、新津油田の最盛期を迎えました

山田又七 
三島郡荒巻村(長岡市) 明治中期に宝田(ほうでん)石油を設立、その後の外資進出に対抗して、周辺の企業を次々に買収、大規模な合併を繰り返し大会社に、東山油田の発展に貢献しました。


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