学長コラム
【第137回】最後の授業
ウクライナでの戦争が長引いています。もちろん、「国連決議」にもあるように、独立した他国へ侵攻したロシアに非があることは明らかですが、ウクライナ国民にとって苦難の日々は、まだまだ続きそうです。
そこで、10月のコラムでは、戦争に関連する話を2つしておきます。敵国に占領された地域での「母国語の使用禁止」と「戦争に駆り出されて犠牲になった動物たち」の2話です。
まずは、母国語使用禁止の話からです。皆さんは、「最後の授業」というフランス作家ドーデの短編小説をご存知でしょうか。国語の教科書や英語教材で読んだ方もあると思います。私は、高校1年生の英語の時間に、「Last Class」として学習しました。
ドイツとフランスの国境線の変更、それに伴って用いる言語が変わる、母国語の文化が失われる物語とそれにまつわる歴史的背景です。
アルザス・ロレーヌ地方
1870~71年にかけ、プロイセンドイツの同盟軍がフランス帝国と戦った「普仏戦争」ではドイツ側が圧勝し、鉄鉱石と石炭を産出する仏領のアルザス・ロレーヌ地方がドイツ側に獲られます。
そこでは、ドイツ語以外の言葉を学校で教えることが禁止されました。
この日、フランス語の教師は、最後の授業で母国語の大切さを訴えます。
「奴隷になっていたとしても、その国民が自分の言語を持っている限りは、牢獄のカギを持っているのと同じだ」
いま、ウクライナのロシア占領地域では、ロシアから大勢の教師が送り込まれて、授業はロシア語で行われ、歴史はロシアの都合のいい内容に変えられていくといわれています。「最後の授業」のシーンの再現に思えます。フランス語の教師が、<ba/バ、be/ブ、bi/ビ、bo/ボ、bu/ビュ>とフランス語の発音を確かめた後に、最後に、黒板に書いたのは<Vive La France >(フランス万歳)でした。いまも印象に残っている場面は、この光景です。
ロシア軍が観閲式などで<ウー・ラー>と叫び、ナチスが<ハイル・ヒットラー>と唱和している光景とは対照的です。
ルール地方
「歴史は繰り返す」といいますが、第一次世界大戦(1914~18年)では、逆にドイツ帝国が破れ、その賠償金を支払わなかったため、重工業地帯のルール地方が「カタ」にとられて、占領されてしまいます。
第一次大戦以来、「戦争とは総力戦」になっていて、経済封鎖が効いてくるのでした。肥料原料の窒素・アンモニアやリン鉱石の輸入が止められて、ドイツでは、有機農業を振興したり、飼料作物「カブラ」を人間が食べて冬を過ごしたため「カブラの冬」という言葉が生まれました。
大変な電力消費にはなりますが、空気中に無限に存在する窒素を固定する「ハーバー・ボッシュ法が発明されたのもこのころで、戦争と農業は切っても切れない間柄になりました。
そして、これまた皮肉なことに、ナチスドイツは、第二次世界大戦時にルールのあるライン・ラントに強行進駐する(取り返す)のでした。
ラストダンスは私に
日本語の国語教科書、英語の短編で「最後の授業」を紹介しましたので、終わりに、フランス語ではなんというのかも記しておきましょう。
フランス語で「最後」は<Derniere>(デルニエル)ですから「最後の授業」は<La Derniere Classe>です。
おまけです。越路吹雪さんが歌った名曲「ラストダンスは私に」は、フランス語で、<Garde la derniere danse pour moi>(最後の踊りは私に残しておいて)となっていました。