学長コラム
【第148回】戦争と気象、農業
ウクライナ戦争は長引きそうで、寒さのなか、人々の苦しみが察せられる。
ところで、1960年代、ベトナム戦争のころ爆発的にヒットしたフォークソング「花はどこへ行った」(byピート・シーガー)は、元々「ウクライナ民謡」だそうだ。
4番以降の歌詞は、「若い娘はどこへ、兵士のもとへ」「兵士はどこへ、戦火に倒れ墓場へ」「墓場はどこへ、花でおおわれる」の部分が追加されてからは、<反戦歌>として大流行した。
本号では、気候・気象、農業と戦争との関係について、過去の事例を抜き出してみた。
雪や氷は戦局に不利な場合だけではない。有利に働く場合もある。
そして、農業用の機械や資材は、戦争と密接にかかわっている。
日清戦争(1894‐95)
戦場となった遼東地方は、冬季の積雪30cm、気温氷点下20℃、日本陸軍の認識は甘く、特別な防寒服の準備はおろか冬服さえ行き渡らず、物資輸送の橇(そり)もなかった。
他方、雪道は歩くにはむしろ楽で河川の凍結で架橋も必要ない。
最も問題なのは、食料、薬品の不足で、凍傷、肺炎が兵力損耗の大きな原因になった。
ウクライナ戦争で東部戦線に塹壕(ざんごう)を掘って防御に当たるロシア兵は、この損害が甚大になることだろう。
ちなみに、トレンチコートは、塹壕用の耐寒軍服として発案された。
日露戦争(1904‐05)
戦場の満洲地域では、積雪が少ないため移動に困難はなく、日清戦争の反省から軍服などの装備も行き渡っていた。
ロシア側は、開戦後、2mの厚さにもなるバイカル湖の氷を利用して、その上に鉄道を敷き、戦場への物資輸送に使った。
あるとき、その氷に裂け目ができて、列車が水中に落ち、大きな被害を出した。
雪や氷の影響は、日本軍よりはロシア軍に大きかったという。
第1次世界大戦(1914‐18)と 「カブラの冬」
軍と軍、兵と兵との戦いから、経済力も含めた国家総力戦が大きな特徴で、経済包囲の中でドイツ帝国は、家畜の作物(カブラ)を食べて飢えをしのぐ事態となった。
前線の事情も同じ、栄養不足のドイツ軍は、大流行したスペイン風邪にやられて戦意を喪失したといわれている。
なお、戦争は農業の発達を促し、それが戦争にも影響した。
肥料の輸入を止められため、「ハーバー・ボッシュ法」による空中窒素固定の肥料が開発された。
有機農業の普及も肥料の輸入制限に起源がある。
肥料・農薬は、火薬・毒ガスにもなったし、トラクターのキャタピラは戦車に使われる。
(注)昨年12月中旬の「NHK新潟」の報道によると、この5月11日から新潟市で開催されるG7の財務相・中央銀行総裁会議をめぐって、「新潟県警は警備の強化に向け、県内のホームセンターに対して、火薬の原料にもなる農業用の肥料を大量に購入する客が訪れた場合、警察に通報するよう呼び掛けている」ということだ。
第2次世界大戦レニングラード包囲戦
ヒトラーはソ連第二の都市で軍需産業の基地であるレニングラードを包囲して輸送路を閉鎖し、密閉・飢餓作戦を実施する。
1941年9月からおよそ900日の封鎖で、市民の死者(=餓死者)は1,000万人を超えたともいわれる。
ここでも冬季のラドガ湖の凍結が「命の道」として、かろうじての生命線となり、冬の間に橇、トラック、やがて氷上鉄道で人員・物資が届けられた。
また、戦術的には、ぬかるみの道では自由にならない戦車の移動が「凍結によって可能になる」との攻撃側の有利性も出る。