学長コラム
【第162回】大町の有線放送電話
皆さんは、「有線放送電話」というものをご存知だろうか。
また、これを運営する主体としての「有線放送電話農協」というのを聞いたことがあるだろうか。
地域内での通話と音声放送の機能を備えた「有線放送電話」のことで、スマホや携帯電話の広がりから、数少なくはなったが、いまでも活躍中の施設もある。
日本電信電話公社(いまのNTT)の電話の普及が遅れた農山漁村等で、戦後、急速に広がり、ピーク時の1963年には2649施設が存在した。
地域の性格から、JAなどの農林漁業団体がその7割程度を運営したが、最後の統計は1983年の705施設、いまは、地域の数字のみである。
中信唯一の「大町市有線放送電話農協」
8月17日の信濃毎日によれば、長野県内では、1955年から開設され、ピーク時には161施設、いまは10数施設とか。
中部信州で唯一の生き残りがこの「大町市有線放送農協」、50周年を迎えて、なお“どローカルな”情報を声で届ける放送を軸に、住民の日々を支え続けている。
旧穂高町の有線放送
自宅のある安曇野市穂高でも、15年ほど前までは、自宅ホールにスピーカーがあって、定期的に地域情報が流れ、あるいは、求められていた。
「〇〇さんのおばあちゃんが行方不明になっています。不明になったのは、●月●日の××時ごろ、そのときの服装は…見かけた方があれば、△△までお知らせください」などである。
その後は、家の中のスピーカーも取り外されて、地域の広報も野外でのスピーカーからとなったが、内容は聞き取りにくく、事態は悪化である。
したがって、放送継続のための大町市の努力と工夫は素晴らしい。
村の有線電話
1戸、1戸でなく、数戸で回線を共同利用していたこともあったらしい。
便利さが優先し、個人情報・秘密が軽視されていた時代のことである。
半世紀も昔のこと、村の家に泊めていただいたときに、有線受話器から、「呼び出しです、呼び出しです。〇〇の1番、電話がかかっています」と聞こえてくる交換手の声が懐かしい。
農村電気導入、農村地域工業導入
農林水産省(当時の農林省)に表題のような補助事業があったことを信じられるだろうか。
何かにつけて遅れていた農山漁村、とくに開拓地、さらには、冬の間の出稼ぎによる家族崩壊、じいちゃん、ばあちゃん、母ちゃんの「三チャン農業」といわれていた農村・農家の生活が、「農政」にこの種の事業を要請したのである。
開拓農協団体が、その歴史の記念に編集した「子どもたちの版画集」を見たことがあるが、「自分の家に、電灯がともった時の喜びを描いた版画」にとても胸を打たれた記憶がある。