学長コラム
第13回 世界遺産、五箇山の合掌造り集落
五箇山菅沼の合掌造り集落
世界遺産
昨年(2024年)、佐渡島の金山が世界遺産に登録されました。とくに新潟県では悲願が実ったと、大いに賑わいました。
世界遺産は1978年にガラパゴス諸島など12件が登録されたのが始まりで、現在1,223件が登録されています。日本では、26件が登録されており、うち5件が自然遺産、21件が文化遺産です。
日本で最初に世界遺産登録がされたのは、いつ頃か皆さんはご存知ですか?
答えは1993年です。法隆寺地域の仏教建造物、姫路城、屋久島、白神山地の4件が登録されました。
翌年の1994年には、古都京都の文化財が登録されています。昨夏は世界遺産登録30周年を記念したイベントが行われており、私は京都を尋ねてきました。
白川郷・五箇山の合掌造り集落
京都が登録された翌年の1995年には、白川郷・五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録されています。
選定理由は、「人類の歴史上重要な時代を例証するある形式の建造物、建築物群技術の集積、または、景観の顕著な例」で、世界文化遺産として登録されました。今年は30周年に当たります。私としては、2年続けての世界遺産登録30周年詣に出かけたことになります。
白川郷には、40年ほど前に行ったことがあります。鳥も通わぬ秘境を期待していましたが、高山からちょっとしたドライブで到着し、綺麗に整えられた家々に拍子抜けしました。ただ、観光客は少なく、丘の上から眺めた合掌造り集落は静謐な空気の中に佇んでおり、その情景に引き込まれたことを思い出します。
最近は、インバウンド客でごった返し、近接するインターチェンジから降りるのにも苦労するほどのオーバツーリズム状態とのニュースを見て、今回は、白川郷は諦めて五箇山に行くことにしました。
なお、白川郷と五箇山は、いずれも庄川流域の集落です。庄川は飛騨高地に源を発し日本海富山湾に注ぐ、長さ115kmの一級河川です。上流にある白川郷から五箇山までは30kmほどですが、白川郷は飛騨高山の文化圏、五箇山は越中富山の文化圏に属します。次回に述べますが、両集落で作られていた黒色火薬原料の塩硝は、白川郷のものは高山御役所、五箇山のものは加賀藩に運ばれていました。
菅沼合掌造り
五箇山を支えてきた産業
国道沿いの駐車場から見下ろすと、渓谷の中の小さな河岸段丘に菅沼集落の9戸の合掌造りの民家が肩を寄せ合うように建っています。綺麗に葺かれた茅葺き屋根が小雨に濡れ、山々の新緑に囲まれて茅一本一本がぬめっとした光を発していました。このような山の中で集落がなぜ生きながらえてきたのか、とても不思議に思いました。
家々の周りには田んぼがありますが、川と崖に阻まれ、せいぜい5反(50アール)程度でしょうか。江戸時代は1反から1石(150kg)の米が収穫され、1石は大人1人の年間消費量とされますので、5反の田では5人分の米が確保できるだけです。明治22年には13戸があったとされますので、集落の人たちが食べて行くには全く足りません。粟や稗はと考えますが、これら雑穀は現在の改良品種に十分な施肥を行っても反収は100〜150kgです。江戸時代には米を上回る量は獲れず、いずれにせよ、多くの人数を養うことはできません。
山間の集落ですので、産業としては木樵や炭焼きを思い浮かべますが、これでは十分な収入になりません。主には、養蚕と紙漉き、塩硝づくりを行っていたようです。山の中で十分な米が取れませんので、換金のための産業が必要だったのです。持続的に換金できる産業が育ったことにより、白川郷や五箇山の合掌造り集落は残りました。地域の産業は、人々の暮らしを支え、その暮らしを後世に繋いで行くために必要だということを強く感じます。
養蚕と紙漉き
塩硝づくりは次回に詳しく書くことにして、養蚕と紙漉きについて書きます。
養蚕は春から秋に行います。3月頃から桑畑の手入れをし、5月に蚕の飼育を開始し、桑の葉を蚕に与え、6月に繭の収穫、これを夏、秋に繰り返し、年に3回繭を収穫します。蚕の飼育は合掌造りの屋根裏部分で行いますので、必然的に屋根裏が大きな建物になります。豪雪地帯ですので、雪を落とすための急勾配の大きな屋根が必要だったことも理由です。
五箇山で生産された生糸は、峠を越えて城端(じょうはな)に運ばれました。五箇山は庄川沿いの集落ですが、庄川は深い渓谷を形成して流れるため、川に沿って平野に下ることはできず、峠越えが一般的でした。生糸は城端で絹織物に加工され、「加賀絹」として京都や江戸に運ばれ、加賀藩の財政を潤しました。
相倉集落の紙漉き体験館
紙漉きに関しては、菅沼集落の下流にある相倉集落で、紙漉き体験館に訪れた際に館長さんらしき人に詳しく伺うことができました。
紙の原料は、楮(こうぞ)です。前年の収穫後の株から発芽します。収穫後の株が体験館の入り口にいくつもありました。今でも楮の栽培と収穫が行われています。
落葉後の冬に皮を剥ぎ、木灰を加えた液で皮を煮て繊維状にほぐして紙漉きの原料とします。かつては木灰を使っていましたが、今は水酸化ナトリウムも使います。強アルカリで繊維を溶かす仕組みです。皮を剥いた芯の部分は、皮を煮るための燃料などに使います。
作られた和紙は高品質で、加賀藩の藩札にも使われていました。この地域では、和紙と繭糸が年貢として納められていました。
楮の切り株
現在は農事組合法人五箇山和紙によって、半紙、天ぷらの敷紙、障子紙、置物、鯉のぼりなどが作られています。館長さんの話では、この組合は戦後に作られたもので、元主計大尉が中心となってこの地の産業復興を考えましたが、ここではやはり紙漉きしかないという結論になり、今に至るとのことでした。養蚕と塩硝づくりは消えてしまいましたが、紙漉きは長い歴史の波を乗り越えて、今も地域を支えています。
(中井ゆたか)